鉄道唱歌

【作詞】大和田 建樹
【作曲】多  梅稚

汽笛一声 新橋を
はやわが汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として

右は高輪 泉岳寺
四十七士の 墓どころ
雪は消えても 消え残る
名は千載の 後までも

窓より近く 品川の
台場も見えて 波白く
海のあなたに うすがすむ
山は上総か 房州か

梅に名をえし 大森を
すぐれば早も 川崎の
大師河原は 程ちかし
急げや電気の 道すぐに

・・・・以下 省略

私の人生六十から

私の人生六十から
心も体も元気にて
七十で迎えに来たならば
ただ今お留守といいなさい

私の人生六十から
いつもニコニコ朗らかに
八十で迎えが来たならば
まだまだ早いといいなさい

私の人生六十から
何も不足はいいません
九十で迎えが来たならば
そんなにせくなといいなさい

私の人生六十から
いつも感謝でくらします
百で迎えが来たならば
頃みて行くよといいなさい

ほかの替え歌もいろいろありますので、こちらから


手持ちの「日本のうた」第一集には東海道編として66番(山陽道)まで掲載されています。
明治33年5月「地理教育鉄道唱歌(一)」という名前で発行されています。
その後
初版発行日 作曲者
第一集 東海道 明治33年5月10日 多梅稚
第二集 山陽・九州 明治33年9月3日 多梅稚・上真行
第三集 東北地方 明治33年10月13日 多梅稚・田村虎蔵
第四集 北陸地方 明治33年10月15日 納所弁次郎・吉田信太
第五集 関西各線 明治33年11月3日 多梅稚
と、このように鉄道発展と伴に、拡張をしていっております。

日本の最初の鉄道ということで新橋から横浜まで敷かれていますが、着工したのが1870年。このとき、大阪-神戸間も工事をスタートしているのですね。
明治5年(1872年)の新橋-横浜間
明治7年(1874年)に大阪-神戸間、さらに
明治10年(1877年)には大阪-京都間に鉄道が開通しています。
因みに東海道線横浜-神戸が全通したのが明治22年(1989年)です
鉄道唱歌はそれから11年後ということになります。

当初、イギリスによる植民地的支配をねらった鉄道建設案が出され、幕府は一旦許可するものの、明治政府がこれを撤回して自前開発(といっても資金は外債ですし、設計、測量、建築は全部イギリスにおんぶに抱っこ)にこだわったそうです。
技術立国日本の礎がこんなところにもあるのですね。

というわけで、前奏とエンディングに、新橋駅の発車チャイムをMIDIにして絡めてみました。



JASRAC情報
製作日誌:
平成20年4月23日 歌詞のみ
平成20年4月28日 MIDIを作成。
出発メロディは、現在の新橋駅山手線4番線のものを参考にして短縮版としてMIDIにしております。
替え歌の歌詞は、東葛合唱団はるかぜのうたごえ喫茶の歌集から写してきました。
平成20年4月30日 Endingに3番線の発車メロディを加えました。
平成20年5月1日 Endingにちょっと手を加えました。
平成26年6月11日 替え歌リンクを作成