「ナーズム ヒクメット100年記念・詩と歌の夕べ」が開催されました | |
1902年に生まれたトルコの詩人ナーズム ヒクメットの生誕100年にあたる本年は、世界各地で、不世出の詩人の業績を顕彰する多彩な催しが企画されています。 ヒクメットは、1963年6月、亡命先のモスクワで、故国に残してきた妻子を想いつつ客死しました。享年61歳。通算17年にわたる獄中生活のなかで創作を続け、その後の亡命地にあっても、反戦・平和を求める国際連帯運動の先頭に立ってたたかい、詩、エッセイ、小説、戯曲、映画シナリオ、バレエ台本などを精力的に執筆しました。「戦争と革命」の世紀・20世紀に人類が共にした苦楽を身をもって体験した詩人が平和と人権、愛をうたいあげた数々の作品は、世界の人々に愛読され、愛唱されています。 ヒロシマに投下されたアメリカの原爆で被爆死した少女が、反戦・平和の署名を訴える詩「死んだ女の子」(トルコ名「少女」)は、現代トルコの国民的な歌謡になっています。日本でも、数名の作曲家により曲がつけられ、教科書に載り、すぐれた挿し絵を生みだしています。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で被災した日本の船員たちを悼む詩「日本の漁夫」もひろく知られています。ヒクメットのその他の作品も、日本の作曲家たちの創作欲をそそり、名曲が生まれました。まことに親日的なトルコ人の心を代弁するヒクメットの作品には、私たちの感性と共鳴するものが多々あります。 ヒクメットの芸術は、トルコの伝統的な民衆文化の豊麗な遺産に根ざすとともに、アジアを含む真に世界的な人類文化の精粋にはぐくまれています。若くしてマヤコフスキーやメイエルホリドらに私淑したヒクメットは,生涯にわたって、既存の芸術の古い殻を破り、新しい時代感覚の表現を求めた前衛芸術家です。「9・I」に象徴される前途多難な21世紀に船出した私たちの心には、今日、ヒクメツトの予言的なことばが、痛切にひびきます。 |
原子炉が間断なく操業している 人工衛星がのぼる太陽めがけて飛行している この夜明けに希望はないのだろうか 希望 希望 希望 人類にたいする希望はある(髢稗 1958年) |
ヒクメットとともに、私たちは、人類にたいする希望を抱きましょう。 没後十数年をへてトルコでようやく解禁されたヒクメットは、いまや国際的に最も知られる国民詩人として甦っています。詩人の多面的な業績を継承し普及するために1991年5月、「ナーズム ヒクメット文化・芸術財団」が発足し、活発に事業を展開しています。 「本財団は、全世界におけるヒクメットに関連する記事、本、写具、絵、映画、音楽、肖像など、それらの資料を収納するセンターである。ヒクメットの作品の研究、普及、紹介につとめるとともに、あらゆる種類の文化的、芸術的、学問的な事業を後援し、内外での文化、芸術、学問の向上につとめる」ことを目標に掲げています。 この財団の目標を日本でひろめ、微力ながらその事業の発展に協力するために、このたび、「ナーズム ヒクメットの生誕100年を記念する会」を発足させ、さしあたり、「ナーズム ヒクメット生誕100年記念一詩と歌のタベ」を首尾よく開催するために全力を注いでいく所存です。本企画の趣旨にご賛同のうえ、ご助力、ご協力をいただけますようお願いいたします。
「ナーズム ヒクメット生誕100年記念・詩と歌の夕べ」 日時;2002年12月16日(月) 午後6時開場 7時開演 9時半終演 プログラム: |
「ナーズム ヒクメット生誕100年記念・詩と歌の夕べ」開催に当たって
今年はトルコの詩人ナーズム ヒクメットの生誕100年にあたります。
ヒクメットは1950年代後半より今日まで日本人の間で歌い継がれてきた「死んだ女の子」(または「死んだ少女」)の原詩者です。
ヒクメットは1902年、オスマントルコ帝国の西端の都市サロニカ(現ギリシャ領のテッサロニキ)で帝国の高官の家に生まれました。11才頃から詩を書き始め、18歳で海軍士官学校に入学しましたが、第一次大戦直後、イスタンブルが連合国に占領されると、ここを脱出し、ムスタファ ケマル パシャ(後のケマル アタチュルク)の指導する祖国解放戦争に加わるためアンカラに行きました。ヒクメットはムスタファ ケマル新政府の命で、学校の教師として、アナトリア地方の山村の小学校に赴き、トルコの民衆たちと接するなかで、トルコ社会の改革の必要を痛感しました。
その後、ヒクメットはロシア革命後のソ連に渡り、詩人マヤコフスキーと交わり、その影響を強く受け、力強い自由詩を書き始めました。
1924年、新生トルコ共和国に帰国するとともに、執筆活動を中心した社会改革の運動を開始しましたが、時の政府に弾圧され何度か投獄されました。1939年には軍学校の学生の叛乱を扇動したという罪名で28年4ヶ月の刑を宣告され、ブルサの監獄に収監されました。過酷な獄中生活の中で、ヒクメットは多くの労働者や農民たちと知り合い、祖国と人民を題材にしたヒューマンな詩や戯曲を勢力的に執筆し続けました。
第二次大戦後も獄中にあったヒクメットを釈放せよという国際的世論の高まりの中で、トルコ政府は1950年ヒクメットを釈放しました。釈放後も政府の執拗な弾圧が続く中で、ヒクメットは翌1951年トルコを密かに脱出し、ソ連に亡命しましたが、トルコ政府からトルコ国籍を剥奪されました。1963年モスクワで客死するまでソ連を中心にして詩作のみならず、ドラマやバレーなどの脚本の執筆や、原水爆の禁止を求める国際的な平和運動など多方面で活躍しました。特に1954年のアメリカのビキニ環礁での水爆実験を契機に、原水爆の廃絶を求める国際的な世論が高まり、ヒクメットもこの運動の先頭にたって活動しました。
「死んだ女の子」はヒクメットが広島・長崎についで、南太平洋のビキニ環礁で3度目の死の灰を浴びた日本の人民を悼んで作詩したものです。トルコ語の原題は「Kiz Cocugu(少女)」。ヒクメットはこの詩のほか,ビキニ環礁で被災した第五福竜丸の日本の漁師を悼んだ「Japon Balikcisi(日本の漁師)」や「Bulutlar Adam Oldulmesin(雲が人間を殺さないように)」という原水爆に反対する気持ち込めた詩(原水爆に関する3部作)を作って日本の人民に贈ってきました。
ヒューマニズムにあふれ平和を愛したヒクメットの作品は日本をはじめ世界中で翻訳出版され、多くの人々に愛読されてきました。また、祖国を追われたにもかかわらず、祖国とトルコの人々を深く愛したヒクメットの作品はトルコの人々にも幅広い支持を受けています。わが国においても、1958年に国文社より『詩集 死んだ少女(ナジム ヒクメット著)』(峯俊夫訳)、1961年に世界現代詩集第4巻『ヒクメット詩集』(中本信幸ほか訳)が刊行され、話題を呼びました。
トルコでは長い間、ヒクメットの作品の出版が禁止されてきましたが、1960年頃よりこの禁止も徐々に解かれ始めました。トルコの歌手ズルフュ リバネルは亡命先のスウェーデンで1975年、ヒクメットの「少女」に曲をつけ、78年トルコに帰国して発表するとともに、さらにヒクメットの数編の詩に曲をつけたアルバム「ナーズムの歌」を制作しました。これらの歌はトルコの青年達を中心に広く国民に受け入れられ78年、79年のヒットチャート1位になるほどの大ヒットをしました。『少女』の歌は今ではトルコの国民的な歌謡となっています。
1991年、ヒクメットの業績を記念するため、トルコの文化人や芸術家たちが中心となって「ナーズ
ヒクメット文化・芸術財団」が設立されました。
トルコ政府は2000年7月にモスクワで行われたヒクメットの墓前祭にトルコ文化省文化次官を参列させたり、『ナーズム ヒクメットの歌』というビデオCDを制作したりしてヒクメットの復権を図っています。
ナーズム ヒクメットの生誕100年に当り、トルコ国内およびパリ、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、アムステルダム、モスクワなど世界各地でこれを記念する様々な事業が行われています。3月21日の世界詩人の日には、ユネスコパリの本部で松浦晃一郎ユネスコ事務総長とトルコ文化省文化次官の共催によるナーズム ヒクメットを記念する集会が開かました。
「死んだ女の子」など日本とも関係の深いナーズム ヒクメットの生誕100年を記念する集いを下記の要領で開催する運びになりましたので、多くの皆様のご支援ご協力をお願い申し上げます。
「ナーズム ヒクメットの生誕100年を記念する会」
代 表 中本信幸
事務局長 石本寛治