こだまの唄

【作詞】桂 貞久
【作曲】近藤 圭

1.お早よう お早よう
  明るい朝が やって来た
  胸にあふれて やって来た
  満員電車の その中で(ラララ)
  あなたと僕の ほほえみが
  見かわす瞳に こだまする
  ララ こだまする ララ こだまする
2.今日は 今日は
  おひるの日ざし 窓の外
  雲が流れる 窓の外
  仕事をおえた その後で(ラララ)
  あなたと僕のコーラスが
  ビルからビルに こだまする
  ララ こだまする ララ こだまする
3.今晩は 今晩は
  こだまの歌が 呼んでいた
  ネオンにのって 呼んでいた
  歌えばたのしく 湧き上がる(ラララ)
  あなたと僕の 明日の夢
  梅田の夜空に こだまする
  ララ こだまする ララ こだまする




  40年代に盛隆を誇った大阪の歌声喫茶。
  今は、どうなっているのか、当時の場所を訪れてみました。
最近の様子は

阪急東通商店街こだま  TOP
大阪の歌声喫茶というば「こだま」なんでしょうね。今でもここで育った方々が、歌声を各地で響かせています。
例えば、People'S和歌山の「我が青春の歌声喫茶」など。

左下の地図は、こだま歌集の中のものです。

こだまは当初、堂山交差点の近くにありました。下の写真の「梅ダコ」の近くだったらしいです。地図にもあるように、その後「新御堂筋」が出来るために立ち退きを余儀なくされました。

移転先が、阪急東通商店街。当時は太融寺町という住所表示でしたが、現在は堂山町になってます。
KODAMAビルは今でも健在ですが、歌声の「う」の字もありません。ご多分にもれず、カラオケなどのレジャービルになってます。


こだま歌集:People'SのOokitaさんに見せていただきました。



こだま歌集の中の地図です。









どうもこの地図が不正確で、旧コダマの位置はまさに新御堂筋のど真ん中になるそうです。
堂山交差点近くのお店の方に伺ったところ、この写真の近くだったということでした。左の地図の旧コダマの「コ」の字あたりで撮影をしました。この梅ダコの裏は新御堂筋です。手前は吉野家になってました。





このページの曲はこだま歌集の収載されている「こだまの唄」です。

5~6小節目にズンチャズンチャのリズムが刻まれています。多分、このリズムが全体にわたって演奏されていたんでしょうね。


当時の店内の様子(写真提供:大北さん)
ピアノを弾いているのが、現在のPeople'Sの大北さん。
右隅にバスドラが見えますね。多分たたいているのがKojimaさん
当時、このようなA4二つ折り、8ページ建てのパンフが配布されてました。
(資料提供:名古屋「ラウム」常連さんの片矢木宣平さん)
中には、当時の新曲の紹介が。
おふくろさん、あの素晴らしい愛をもう一度、女のくやしさ、さらば恋人、砂漠のような東京で、横浜たそがれ、また逢う日まで、わたしの城下町、昨日・今日・明日、雨の日のブルース、さようならをもう一度、天使になれない、17才、熱い涙、ちょっと淋しいの、子犬

(画像をクリックして拡大表示)
戎橋商店街どん底   TOP





なんばの高島屋から北に延びる戎橋商店街にどん底はありました。
目印の端布屋さん、とらやは今も健在。
その左に酒屋さんがあり、その隣だったらしいのですが、その面影はありません。右の写真のパチスロ屋さんが「どん底」の場所でした。

どん底の成功をみていた人が、近所に「ウィーン」という歌声喫茶を作ってます。しかし、短命だったようです。

南大阪合唱団のカンベさんに、昭和56年に開催された「どん底」同窓会について伺いました。喫茶「ドン」に名前は変わっていますが、まだ面影は残っていたようです。南大阪合唱団は昭和32年ごろに「どん底」で演奏活動をやっていたとの事。

どん底歌集:People'SのOokitaさんに見せていただきました


(歌集の裏表紙)
道頓堀ふる里   TOP

おなじみ阪神優勝の際に、多くの人が川に飛び込んだ「道頓堀」にふるさとがあったとのこと。
しかし、その場所が、よく分かりません。

「くいだおれ」の右ナナメ前にあって甘いもの屋さんが入っていたビルで3.4階が歌声喫茶だったようです。目印は「天牛」という古本屋さんのとなり、ということです。
当時リーダーをしていた1人が吉本新喜劇のチャーリ浜なんですって。


歌集の写真は、当時のふる里のもの。
うたごえ、というより「歌謡集」って、生オケのはしりだったのかしら?

(名古屋のラウムの常連さん、片矢木宣平さんからいただきました)

本町2丁目     TOP



京都の「炎」と同じ系列で、キャッチフレーズはそれぞれ、
  大阪歌ごえ喫茶「炎」
  京都歌声ホール「炎」

大阪では、東区本町2丁目の佐々木ビルの5階にあったとのことです。
写真を撮りに行ったら、ご丁寧に上述のような看板が掲げられてました。
現在は「和民」が入ってます。
この歌集(セロファンテープで補修だらけですが)は、People'Sのお客さんSuminoさんにお借りしました。
この歌集の発行日は昭和34年7月10日付けでした。Suminoさんも、記憶は定かでないのですが、当時通ったのは多分昭和31年~34年の大学生のころ、とのことでした。
常連さんでは、直木賞作家の難波利三さんがいたそうです。
正面に段の低いステージがあり、ピアノとアコーディオンが演奏されてました。100人くらいが入れるという、会場席は正面に向いた劇場スタイル。純喫茶でアルコールの提供はなかったとのこと。
JR鶴橋古里     TOP
ここにも歌声喫茶があったそうです。

大阪第2ビル ともしび     TOP

1981年3月、大阪の駅前第2ビルという一等地に開店。
店長は金城さん、何度も東京のともしびに足を運び、ノウハウを学びます。
新宿ともしびから、書記長の宮本さん、短期間でしたがリーダーは青柳常夫さん、2年間滞在した日高孝さん,さらに、現在の大阪ともしびで活躍の一ノ瀬さんが応援として駐在してました。



【大阪ともしび誕生のいきさつ】
大阪守口市に大和硝子という酒ビンメーカーがありました。
オイルショック(昭和48年)後の不況で、50年9月に倒産。
55年に会社更生法が適用され、事業資金として7,000万円を確保。
これの有効利用として、組合提案でうたごえ喫茶事業計画がスタート。
このうち、6000万円を投資。100㎡のフロアーにグランドピアノと約80席が置かれてました。

残念ながら、93年ごろに閉店になってます。
家賃が高かった(こりゃ当たり前ですなバブルだもの)、立地条件も今ひとつだったことも取りざたされてます。
あと、2年くらいガマンしていたら、今の第2(?)次うたごえブームに乗れたのにね。



【東京風歌詞割り】
歌詞割りって、お店毎にちょっとした違いがあり、それでお店の独自性というか、他店との差別化を図っているケースがあります。
ここでも、リーダーの一人、角田さんは、東京流の歌詞割りにこだわったそうです。
「山の友よ」の歌い方、「カチューシャ」の歌い方もちょっとしたこだわりをいれたとか。

具体的にどうだ?というのは、不明ですが、確かに「ともしび」は変わった歌い方をするときがあります。例えば、「収穫のうた」=♪ラララそれ収穫だ、の部分など。
こういうのは、新宿のカチューシャの東店と西店の間でもあったとか。常連さんのこだわりだったらしいです。(今で言えば、いじめですな!)


ちょっと余談ながら、エスカレーターの乗り方。東京は左側。大阪は右側(但し、関空は左側)。名古屋はこの辺全然お構いなしで、後ろが詰まろうが気にしない。まあ、ゆとりなんでしょうね。



 

JASRAC情報はありません

製作日誌:
平成15年12月9日 大阪うたごえ喫茶今昔物語を企画
平成15年12月10日 歌詞2番3行目が脱落してました。
平成15年12月20日 当時のこだま内部の写真をアップ
鶴橋の古里、なんばのウィーンを追加
平成16年2月7日 炎の記述を追加
平成16年4月18日 名古屋「ラウム」の常連さん片矢木宣平さんから
 ・こだまのパンフについての記述追加
 ・本町・ふる里の歌集データを追加
カンベさんから
 ・どん底同窓会について
大阪・ともしびの宮本さんから
 ・ともしび関連情報を
いただきました。ありがとうございました。