筑豊地方の子守唄
【作詞】小田陽之介
【作曲】赤司哲夫
1.おまや筑豊の おまや筑豊の
炭鉱(やま)育ち
ちちは 三番方
今夜は ははと二人きり
はよねんしゃい はよねんしゃい
やまん神さまも
ねとんしゃる
2.おまや筑豊の おまや筑豊の
炭鉱(やま)育ち
ちちは 三番方
エンドレスはゴロゴロばい
はよねんしゃい はよねんしゃい
炭鉱(やま)も来年にゃ
閉まるげな
3.おまや筑豊の おまや筑豊の
炭鉱(やま)育ち
ちちは 三番方
立坑(たてこう)のあかり なつかしか
はよねんしゃい はよねんしゃい
向かいのボタ山には
風が鳴る
「異風者からの通信」で炭鉱の歴史をみつめているMaekawaさんからのリクエストで取り上げました。「筑豊の子守唄」というものありますね。横井久美子さんが歌ってます。
(以下、maekawaさんから教えていただいた福岡県宮田町ホームページより抜粋)
昭和42年頃、中学校卒業後の中学生はまだ「金の卵」と称せられるなどして、就職していく生徒がかなりいた。とくに関西方面に赴く者が多く、当時の国鉄筑前宮田駅から集団就職列車などが出るほどであり、家族や周りの人々などが見送りに来て別れを惜しんでいた。
そのようなとき、当時宮田町内の中学校の教師であった小田陽之介氏と赤司哲夫氏が「宮田を遠く去りゆく子どもたちがこの古里の地“宮田”をいついつまでも忘れないで欲しい」と生徒に慈しみと愛の心を込めて作詞・作曲し、当時宮田町太蔵東区に在った映画館「東映劇場」での宮田町就職生激励会において、中学校のブラスバンド演奏のもと、音楽科教師の歌唱によって披露された。そのメロディー・歌詞は就職生の心に故郷の思いを焼き付けたという。
「マンコロの歌」のところでもコメントしてますが、現代でも1番方~3番方まで職業は非常に多く、労働衛生上の問題になりつつありますね。皆さんが今見ているこのHPもデータは@Niftyで管理しているのですが、この管理している裏方さんのことを皆さんは考えたことありますか?この職種では、3番方まであればいいほうで、2番方でやっている会社も多いと聞きます。つまり、1番方は朝の9時から夜の9時まで。2番方はそのあとの12時間勤務。午前中の日比谷線(東京の地下鉄の路線名です)の中。朝の7時ごろ、社内でバク睡している若者がいます。こいつらは六本木あたりで「ディスコの帰り~」ってな輩です。10時ごろ。ネクタイを締めた若者が、同じようにバク睡してます。彼らはこの夜勤明けの若者。このような管理会社に就職すると、最初の4年間はこのように、朝・朝・休・休・夜・夜・休・休という昼夜混合の生活を強いられるわけです。交代での夜勤体制のある職場は、警官、消防、看護婦さんなど多岐に渡ってますが、つらい仕事ながらそれらのバックアップ体制はそれなりに出来上がっています。しかし、このコンピューター関係では、まだ歴史が浅いため、健康管理などの問題が内包していると言えるわけです。
JASRAC情報はありません
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