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筑豊の子守唄

【作詞】大野隆司
【作曲】岡田京子

1.御底(おろしぞこ)から百斤スラにない
  闇をつんぶるうて 乳をふくませる

2.親のバチならうけてもよいが
  腹をいためた子に 難儀はさせぬ

3.遠賀川土堤 野焼きが過ぎりゃ
  ひもじさわすれて つくしんぼ探す

4.はぜの実よりもまっかにもえろ
  死んだヤマみおろす 烏尾峠

5.親の在所を恥じてはならぬ
  マブベコひとつで おぬしを背負うた

6.陥没のまちの別れのつらさ
  巣立ちゆく子らに 春よみがえれ


横井久美子の「おいで一緒に」に収録されている「筑豊の子守唄」をベースにしてMIDI化をしました。
CDでは安達元彦さんと一緒に歌ってます。
横井さんをString系、安達さんをFluteで鳴らしてます。
歌詞は8小節ですが、更に4小節、あ~あ~と歌われている分があります。ですから、1番あたり12小節です。前奏は4小節。6番の後は、あ~あ~の部分が4小節x3回程度繰り返されてます。

この曲の背景解説を異風者からの通信、Maekawaさんからいただきました。
「筑豊地方の子守唄」の歌詞の中でもうかがえますように、小ヤマがひしめく筑豊地方の産炭地では、昭和30年代から40年代にかけて閉山が相次ぎ、ロクな賃金ももらえないまま、炭鉱住宅に残された本人およびその家族たちは、人並みに食うことすらままならず、悲惨な生活を強いられました。
 子供たちは、飢えをしのぶため、遠賀川の堤防等からつくしんぼうを採ってきたり、鉱害で地面が陥没して出来たため池からザリガニを捕ってきて食材としました。
 中には、夫に代わって歓楽街へ身を売りに行った主婦もおり、また、そのまま炭住へ帰ってこなくなった母親たちも数多くいたそうです。その時代、親に捨てられる子供たちも多く、当時の田川市児童相談所はそういう子供たちで一杯になったそうです。
 しかし、そういう環境にあった「わがふるさと」を恥じることなく、立派に育てという願いを込めて、「筑豊の子守唄」は歌われていると思います。


横井久美子の35周年CDの中、2枚目の「おいで一緒に」ライブ盤に収録されてます。
CDのライブ録音は1977年11月9日に統一劇場けいこ場でされてます。いまはもう発展的解消(と勝手に解釈してますが)して3つの劇団グループに分かれていることは、「ふるさと」のページで書きました。その統一劇場でライブをやったと云うのが、いいですね。

【歌詞について】

マブベコ 坑内着のことらしいです。
スラ(笊) 「後山(主に女性)が、先山(男)が掘り出した石炭を運ぶのに使うザル」とあります。
昭和3年、鉱夫労役規定が改正され、16歳未満の少年と婦人の深夜作業および坑内労働が禁止され、同規定は、昭和8年9月から実施されましたが、小ヤマがひしめく筑豊地方の産炭地では、食うために、その後も長く女性が隠れるようにして坑内で働いていたそうです。
百斤 約60kg(唐目(からめ)の斤から換算)
遠賀川 福岡県中部の馬見山(978m)に源を発し、遠賀郡挿屋町で響(ひびき)灘につながっている、延長61kmの川
 遠賀川は、筑豊炭田を語る時、無くてはならない象徴的な存在である。  かつて遠賀川を中心にしてその周辺にはたくさんの中小炭鉱がひしめいていた。そのせいで川の水は黒く汚れていた。しかしそれは、炭鉱地帯の繁栄を意味していた。  明治時代、筑豊の石炭輸送の大動脈として、多い年には年間10数万隻の川ひらた船(五平太船)が、堀川という人工運河から遠賀川を経て、洞海湾の若松港を目指し行き来した。  しかし、間もなくして、石炭輸送は鉄道にとって代わられ、職を失った船頭たちは炭鉱に職を求め、坑夫として食いつないで行った。  が、それも束の間のことで、昭和30年代から40年代にかけて中小炭鉱の閉山が相次ぎ、「残されたのはボタ山と鉱害と失業者と貧困だけ」と言われるほどになってしまった。  現在、黒く汚れていた遠賀川も清い水を取り戻し、魚たちも戻ってきた。しかしそれは、よかったのか悪かったのか、またはそれが時代というものなのか、炭鉱の死を意味している・・・・。  かつて船頭たちが唄った「わたしゃ若松 みなとの育ち 黒いダイヤに命を賭ける わたしゃ若松 五平太育ち」(火野葦平作詞・五平太ばやしの歌より)という唄も、遠い昔のことである。(Maekawaさん)
烏尾峠 地図で探ってみましたところ、福岡県田川郡糸田町と嘉穂郡頴田(かいた)町との境に”烏尾峠”という地名が所在していることがわかりました。 「死んだヤマ」というのは、閉山された当時の小・中の炭坑のことを指しているのでしょう。
なお、昭和35年発行された写真家・土門拳の写真集に「筑豊のこどもたち」というものがありますが、その中の写真説明文に"烏尾峠"に関して、次のように書かれておりました。 「8月、田川児童相談所へ連れてこられたある姉妹は、夕食後逃げ出した。 なつかしいふるさとへ帰りたかったのだ。飯塚と田川の中間に烏峠がある。夜の烏峠を泣きながら歩く姉妹の姿が、バスのヘッドライトに照らし出された。翌日、姉妹は相談所へ引き渡された。・・・「ここから逃げていいことあるか」と先生が叱る。いいことなどあるはずはなかった。子供はただ泣くだけであった。」  この中の”烏峠”というのは、場所的にたぶん"烏尾峠"のことだと思います。(Maekawaさん)

JASRAC情報

製作日誌:
平成16年1月21日 歌詞のみ
只今、耳採譜中につき、MIDIアップは当分先です。
平成16年2月15日 Maekawaさんの解説を掲載しました。スラについてもMaekawaさんから教えていただきました。
平成16年2月18日 Maekawaさんの烏尾峠についての解説を追記しました。
平成16年3月25日 大変遅くなりました。やっと、MIDIをアップ。実は、はるかサンに採譜して頂きました。Thanks.
平成16年3月26日 Maekawaさんの遠賀川についての解説を追記しました。
MIDIを手直ししました。