midi版はこちら    mp3版はこちら  ただいまMP3で演奏中

母の叫び

【作詞】中野鈴子
【編詞・作曲】藤原富枝

行ってしまった
もう煙も見えない
息子を乗せた汽車は行ってしまった
耳や手足の指が腐って落ちるという
そんな寒いところへ行ってしまった

 生きて帰るようなことはあるまい
 汽車の窓のあの泣き笑い顔
 あれがあの子の見おさめなのか

(セリフ)
親一人子一人の暮らしで
あの子は毎晩
わたしの夜具の裾をたたいてくれた
ああ、わたしを大事にしてくれたあの子
わたしのひとり子
物持ちの子供らはきりきず一つ鼻風邪ひとつ引いても
それ医者 それ薬とおおさわぎをして
ふかふかまるまると育っていったけれど
わたしらの子供は産みっぱなし
田の畔をひっぱりまわすやら
ぼろくずにおしこめたりして
ひもじ泣きに死んでいった
風邪引きやハラをこわし
三人の子供が死んでしまった
その中であの子だけ生き残ってくれて
あんな大きな若者に成人してくれたのだ
いまになって
戦さで死なせねばならないなんて


「ふるさとからの小包」に次ぐ、中野鈴子の第2弾です。
かなり暗い感じですが、時代が時代だけに、あんなときには絶対に戻りたくない、と思わせるような曲です。

中野鈴子は、1906に生まれ、1958年に没しています。
この詩を書いたのは、1931年1月5日です。
詩の中の一節に、「耳や手足の指が腐って落ちるという
そんな寒いところへ行ってしまった。」
という記載がありますので、この母のお子さんは、満州方面に出兵に行かれたのでしょう。

1894年(明治27年)2月 8日 日清戦争
1904年(明治37年)7月25日 日露戦争
1918年(大正 7年)1月   シベリア出兵
1927年(昭和 2年)5月 3日 山東出兵(東北方面にも広がる)
1931年(昭和 6年)9月18日「満洲事変」

さて、どの出兵に行ったのでしょう?
満州事変そのものは、1931年の夏ですけど、それ以前に関東軍は満州・蒙古方面に展開をしてました。 とくに1928年末張学良政権が国民政府へ合流したのを契機に,東北でも国権回復運動が高まり,日中間の紛争が頻発してましたので、こういうのに徴兵されたのでしょう。

JASRAC情報

製作日誌:
平成20年12月27日 歌詞のみ
平成21年1月5日 MIDIをアップ
最初の5行は3拍子のゆったりした主題部。
転換部の3行は4拍子になってます。
朗読部分は、3拍子の主題部を繰り返して演奏してますので、ゆっくりと読んでみてください。
平成21年1月7日 あまりにも暗過ぎて、聴いているだけで落ち込んでしまいそうなので、主旋律をオクターブあげて、音色もString系に変更。
平成21年1月11日 この詩の背景をはるかさんと粟田さんに調べていただきました。