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惜別の歌

【作詞】島崎 藤村
【作曲】藤江 英輔

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

4.君のゆくべき山川は
  落つる涙にみえわかず
  袖のしぐれの冬の日に
  君に贈らん花もがな


太平洋戦争真っ只中の1944年、作曲者は中央大学から学徒動員令で造兵廠にいました。戦地に赴く学友を送る際に友情と離別の思いを込めて作ったといわれてます。
中大のHPでこの辺の事情が掲載されてます。ご参考まで

さて、学徒動員はまず1938年に学徒勤労動員から始まり、1943年には学徒戦時動員体制確立要綱が制定。10月21日,文部省学校報国団本部主催による出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開かれ,東条英機首相,岡部長景文相出席のもと関東地方入隊学生を中心に7万人が集まり、例の学生服を着た行軍が演出されるのです。
それから時を経て1960年代。10月21日は国際反戦デーとして、ベトナム戦争反対のシンボリックな特別な意味合いを持つようになってます。10.21は多分66年の総評54単産などの101反戦ストが最初と思います。翌年はの国際反戦統一行動デーとして,国際的連携による反戦活動へと拡大しています。

話は、1964年。そう東京オリンピックです。10月10日の開会式のまえ、多分4日だったと思います。その開会式のリハーサルが国立競技場でありました。選手団の行進には都内の高校生が動員されました。わが、第一学区の城南高校は、北朝鮮とオランダと北ローデシアの代役を務めました。エーちゃんは北朝鮮グループに入ってました。そのリハーサル本番(?)で、国立競技場に足を踏み入れるとびっくり。5万人の観衆で埋まってました。本モンの本番のチケットが手に入らなかった人が「雰囲気だけでも」とリハーサルを見にきたのでしょうね。翌日の朝日新聞の論評では「まるで学徒出陣の行軍を見ているようであった」と。そりゃ当時の純真な高校生。「テンポ120を保ち、絶対によそ見するな」、と厳命され、体育の時間に一ヶ月もかけて行進の練習をしてきて、この5万の観客のまえにだされたら緊張はしますよね。
北朝鮮は政治的問題で選手を引き上げてしまうし、北ローデシアはオリンピック中に独立してザンビア共和国 Republic of Zambia になるし、思い出が色々とあるリハーサルでした。


1964年10月4日日曜日東京国立競技場で都内の高校生を動員した東京オリンピック開会式のリハーサル風景


製作日誌:
平成14年6月09日 マルちゃんからのリクエストにより、まず13日歌詞のみ製作
平成14年6月16日 コメント作成。何で惜別の歌がオリンピックになるのか、毎度の脱線です
平成14年7月26日 MIDIデータβ版を作成。メロディはインドのSitarですが、いかがですか?
平成14年7月29日 アララ、3番までしかなかったので、4番の分を追加。2番・3番のバックの音量を増やす。ほとんど聞こえなかったでしょ?
平成14年10月19日 北ローデシアが独立してザイールに...と記載しておりましたら、「ザンビアの間違い」とのご指摘をいただきました。Itoさん、有難うございました。
平成14年12月21日 東京オリンピックのリハーサル風景の写真です。
平成16年8月3日 MOKAさんからの情報で、中大のHPリンクの追記
令和6年8月11日 歌詞の4番を差し替えました。
原詩は、藤村藤村の「高楼」。お嫁入に旅立つ姉を見送る妹との会話風の8連構成になっています。
そのうち、1,2,4連が小林旭がレコード化した歌詞ですが、本来は4番に7連が使われていました。当サイトでは4番に6連の歌詞で紹介してましたが、訂正をしました。