midi版はこちら    mp3版はこちら  ただいまMP3で演奏中 海のシルクロード

海のシルクロード(試験運用中)

【作詞】志田昌教・園田鉄美
【作曲】 園田鉄美
【編曲・演奏・歌】園田鉄美

1 いにしえの大和 その都を立ちて
  めざすは 唐土(もろこし) 西安
  風を帆にはらみ 時に櫓を漕ぎ
  入り江をつたい 船路をたどり
  一路 大海を渡る
  西へ 西へ 進む
  西へ 西へ 海のシルクロード

2 今旅立つ島の その岬に臨み
  思いはす 唐土 西安
  ふくらむ夢と 憧れの都
  大志を遂げる 誓いも固く
  一路 大海を渡る
  西へ 西へ 進む
  西へ 西へ 海のシルクロード

3 消えゆく島影に 今別れを告げて
  めざすは 唐土 西安
  荒ぶる海を 逆巻く波を
  越えてゆく 若人の息吹
  一路 大海を渡る
  西へ 西へ 進む
  西へ 西へ 海のシルクロード
  西へ 西へ 進む
  西へ 西へ 海のシルクロード




(鉄ちゃんのホームページより転載)
 今テレビ放送開始50周年を記念して、NHK特集シルクロードが再放送されている。シルクロードと言えば、うたごえに関わる人には国鉄労働者の思いを歌った「俺たちのシルクロード」がまず浮かぶだろう。文字通り彼らにとっては国鉄は国民の暮らしを運ぶシルクロードであったし、この歌がやがて国鉄民営分割化に抗する歌として歌い広がっていったのも当然であった。

 さて、私が1997年4月から2000年3月まで転勤で五島の福江市に在住していたとき、五島が遣唐使のルートになっていたことを知った。遣唐使船は、難波津を起点に瀬戸内海、北部九州を経て唐の都長安(後の西安)まで、当初は対馬から朝鮮半島を経由する北路がとられていたが、百済が乱れた後には、沖縄、揚子江口を経由する南島路となり、さらに後はこれが遠路ということから、五島列島から一気に揚子江口を経由する南路となった。また当時の航海技術では幾度となく難破や漂流を余儀なくされている。長崎県福江島では、南路の寄港地として、岐宿町の魚津ヶ崎や三井楽町の柏崎が知られている。特に柏崎は日本の最終寄港地、風待ちの場であり、遣唐使たちは万感の思い(命がけ)で大海へと旅立ったのである。

 折しも、転勤した年の5月、五島でも最西端に位置する三井楽町役場が万葉集にも詠まれ、遣唐使の日本での最後の寄港地であったという故事にこだわって、西安に町職員を徒歩で派遣するということ、また1999年に遣唐使の資料展示と物産館を兼ねた「遣唐使ふるさと館」をがオープンすることを知り、私は言いしれぬ感動を覚え、そして決意した。何としても遣唐使の歌を創って、その事業のために役立ててもらおうと。

 翌年の秋、歌は2番まで自分で創ったが、今ひとつひねりを入れたいと、佐世保のうたごえの友人であった詩人志田昌教氏に福江まで来てもらって知恵を借り、3番までの歌として完成した(下記の歌詞参照)。すぐコンピューターミュージックでカラオケを創り、自ら歌い吹き込んだ。そして、まず職場の上司に経過を話し、聞いてもらった。 上司「おお、これはよかねぇ。」 私「三井楽町長さんに聞いてもらいたいのですが、紹介してもらえませんか。」 上司「よかよか、紹介してやる。私も同行してやるけん。」 そして、私と上司の二人で吹き込んだMDを手にウォークマンを携え、三井楽町の立本町長を訪ねたのである。

 私「遣唐使の歌を創りました。ぜひ遣唐使ふるさと館の歌として役立てて頂きたいのですが。」 町長(歌を聴きながら)「おお、こりゃよかですね。遣唐使の雄々しさが良く出ている。おい、助役を呼べ。」 助役「おお、いいですな。」 町長「教育長を呼べ。」 教育長「ほぉ、誰が歌っているんですか。園田さん?ほぉ!」という具合に、観光課長、財政課長等、町役場の幹部の方々が順繰りにウォークマンを交代して聴いたのである。立本町長が歌好きということもあって、「海のシルクロード」はまずは好感を持って受け入れられた。そして、ぜひ活用したいとの意向が表明された。

 一方、その年の12月、福江市商工会議所婦人部恒例の年末チャリティ職場対抗歌合戦があるので、上司から「海のシルクロード」で職場代表で歌ってくれということになった。いくら合唱をやっているとは言え、このコンサートは福江市のそうそうたる歌い手が出るのである。私は、まあこういう五島にちなんだ歌ができたことを知らせるだけでも、意義あることと割り切って出演することにした。ところが、何と私は最優秀歌唱賞(大賞)をいただき、トロフィまでいただいたのである。このことは地元の五島新聞にも取り上げられて、「海のシルクロード」は一躍脚光をあびることになった。

 だが、その後三井楽町からはしばらく何の連絡もなかった。考えてみれば、いきなり県の職員が訪れて、良い歌ができたから使ってくれというのである。確かに聞いてみれば、良い歌かもしれないが、果たして遣唐使ふるさと館のテーマソングにするまでの価値があるものだろうかと思われたのだろう。そして翌年の2月、三井楽町から福江つばき祭りの歌謡コンサートの審査委員として作詞家のもず唱平氏(代表作「花街の母」)が来るので、「海のシルクロード」についてみてもらうので立ち会って欲しいとのことだった。そして、当日。もず氏「良い歌ですね。こんなに良い歌を創られると我々の商売も上がったりですよ。」「これならCDにする価値がありますね。」 この一言で「海のシルクロード」は一気に町予算によるCD制作へと動き始めたのである。(その後、三井楽町婦人会の要請で「万葉音頭」も作曲することとなり、関西で活躍する演歌歌手によって町予算でCD制作された。)

 福江赴任から3年目の1999年7月。遣唐使ふるさと館のオープニングセレモニーの中で私と志田氏は三井楽町から表彰状をいただいた。そして、シングルCD1000枚がプロの手で編曲、吹き込まれ、遣唐使ふるさと館のイメージソングとして発表された。また、この曲は五島合唱連盟約100名によっても演奏され、今なお五島合唱連盟の合唱祭の合同合唱曲として歌い続けられているということである。

 さて、五島を離れて1年半後、県庁職員や夜間短大卒業生のつながりから中国旅行に行かないかとの話があった。行く先は西安だと言う。これに乗らない話はないと思い、即中国行きを決めた。西安(昔の長安)では、過去の歴史的文化財の蓄積量とその壮大さにとにかく圧倒された。遣唐使が命がけで海を渡った理由がわかる気がした。そして、中国西北航空のスチュワーデスの顔を見てびっくりした。その顔はまさにあのガンダーラや敦煌の壁画、仏像にあるような、東洋と西洋の美人を融合したような顔だったのである(記念写真を撮り忘れたのは一生の不覚であった)。西安の夜、名物の餃子料理に舌鼓を打ちながら見た中国宮廷の歌や踊り、音楽のショーも最高だった。特に踊り子たちは、天の羽衣(袖先の長さが数m)を着て天女の舞を踊るのであった。それは、シルクロードの沿線や発着点に見られる飛翔天の壁画そのものだった。また、私にとって西安行きの最大の収穫は、西安の城壁の上で「海のシルクロード」を歌ってきたことである。感無量であった。 

(鉄ちゃん)



JASRAC情報はありません

製作日誌:
平成15年7月27日 MP3データを自宅サーバーにアップしました。試験運用中です。MP3が聞こえるかどうか、受信レポートをお願いします。
平成15年11月3日 自宅サーバーはGiveUpしました。代わりにInfoseekに契約して、MIDI、MP3などのデータ系をこちらから持ってくるようにしました。