赤い靴

【作詞】野口 雨情
【作曲】本居 長世

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える



親から子へ、子から孫へ、親子で歌いつごう
「日本の歌 百選」より

「赤い靴」の主人公きみちゃんについては、もう有名になりすぎたくらいです。
生まれは明治35年、故郷は静岡県日本平、
お母さんのかよさんは、生まれて間もないきみちゃんを連れて北海道に移ります。
しかし、きみちゃんが3歳の時に開拓農場にはいるために、足手まといになるきみちゃんをキリスト教の神父さんに引き取ってもらいますが、
その後、東京に来たものの、きみちゃんは結核に罹っており、鳥居坂の孤児院に預けられてしまいます。
神父さんがアメリカに帰国するためです。
明治44年、9歳のきみちゃんは、この孤児院で息を引き取ります。
一方、お母さんのかよさんは、てっきりきみちゃんがアメリカにわたっているものと思いこんでおり、母親としての無念を野口雨情に語ったそうです。
この詩が出来たのが、時に十年後の大正10年の話です。
ところが、実際は、「異人さんに連れられて」行っちゃってなかったんですね。

そのきみちゃんの像ですけど、現在6つの像がゆかりの各地にあります。

この歌の舞台である
横浜市山下公園
「赤い靴を愛する市民の会」
による赤い靴の女の子の像

(昭和54年11月建立)
きみちゃんの生まれ故郷
静岡市日本平
「母子像」

(昭和61年4月)
きみちゃんが預けられた
孤児院のあった麻布十番
「きみちゃん」

(平成元年2月)
開拓農場があった
北海道留寿都村
赤い靴公園
「母思像」

(平成3年10月)
母親かよさんが再婚した夫が開拓農場での挫折のあと「小樽日報社」に勤めます。

北海道小樽市運河公園
「赤い靴 親子の像」

(平成19年11月)
きみちゃんを引き取ってもらった神父さんは函館のアメリカ人宣教師チャールス・ヒュイット夫妻でした。

北海道函館市
西波止場近くの広場
「赤い靴の少女像」

(平成21年8月7日)

エーちゃんの住んでいる近くに麻布十番のきみちゃんの像があります。
三番目に出来た像ですけど、この像に沢山の好意が寄せられて、今では1,000万円を超えるチャリティになっています。


「十八円の詩」
(麻布十番ローリエヤマモト 店主 山本仁壽)

はじめは 十八円でした
だれかがあたたかな心を 託してゆきました
愛の心がひろがって 五十八円になったとき
だれかがガラスの器をおきました
一週間たつと 七五五円になっていました
いたずらに十円とって
自転車で逃げた男の子がいました
つぎの日に 二十円おいて
ゴメン といって走っていきました

あたたかな日曜日
親子づれが「きみちゃん」をみていました
女の子が「お母さん 十円」
「お父さんも・・・」
愛の輪が広がって
きみちゃんの目が光ってみえました
きみちゃん 君は もう ひとりじゃない
みんなが 君を見つめている
みんなが 君を・・・

乳母車のお母さんが
幸せをかみしめるかのように
赤ちゃんを見ながら
いくらかを置いて行きました
暖かな春の陽のひかりの中で

はじめは十八円でした。



JASRAC情報
製作日誌:
平成21年8月27日 歌詞のみ
百選のうち、半分くらいはまだウチにありません。
もっとも、「上を向いて歩こう」のようにネットはダメという曲もありますけど。
平成21年9月1日 MIDIをアップ
平成21年9月2日 各地のきみちゃんの像を紹介。
各地のサイトから写真を勝手に拝借してきました。
(いいんかな???ゴメンナサイ)
昨日新聞の折り込みに入っていた「十番だより」(という麻布十番のミニコミ誌)に掲載されていた「十八円の詩」を拝借。
作者の山本さんは、きみちゃんの像の前にお店があり、実質的な管理人でもあります。
平成21年9月3日 地元のきみちゃんだけは自分で撮ってきました。
Unicef募金については、写真のように専用の小箱が足元に置かれています。
ところで、このきみちゃんの顔ですけど、実際とは違うというか、そういう資料は残っていないので、作家(麻布十番のは佐々木至)の創作だそうです。 DEEP AZABUの管理人さんの岩田さんに伺いました。