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はぐれつばめ(孤燕)
【原詩】劉 信英
【作詞・作曲】すずききよし
はぐれつばめが大空で
親をさがして鳴く声きけば
涙があふれて止まらない
雪の荒野を泣きながら
親をさがした幼い日々も
親を恨んだことはない
筆をとっては親思い
熱い涙があふれるばかり
めぐる春秋いくたびか
(間奏)
父母たずねて幾年か
たとえ一目と夢見てきたが
空しく祖国を離れ行く
桜は咲いてまた散るが
はらから人(びと)の熱い心は
いついつまでも忘れない
【H20.6.14】
戦争孤児については、最近の書物「あの戦争から遠く離れて」(城戸久枝)をお勧めします。
当時の厚生省や日赤も頑張ったのですしょうが、国のやることは、残留者だけでなく、日本にいた人もみんな戦争被害者という画一的な線引き。
この本の主人公は1970年に自力で帰国を果たしますが、その後は、いろいろな方面からの全面的な支援で帰国が一気に加速するのですが、その中で、全部が全部、肉親との再会を果たせたわけではありません。
以下、すずききよしさんからのメールの引用です。(H20.6.16)
はぐれつばめ(孤燕)と言うタイトルは、私の造語ですが、敗戦後丸1年を過ぎて、やっと引き揚げ命令が出て、満州各地から、邦人たちが、艱難辛苦の末、やっと引き揚げ船の着く港「胡芦島」にたどり着き、乗船順を待っている時、海岸の渡り鳥終結地で、季節の変り目に集まってきて、雛鳥は遠距離の飛び方などを、学びながら、季節風の来るのを待っている姿を、思い出したのです。15歳の私もその一人でしたが・・・・
でも、親から置き去りにされたり、迷い子になったり、売られたり、死に別れたり、生き別れたり、いろいろな事情で、引き揚げ船に載れなかった何万人もの日本人孤児たち。
彼らは親にはぐれたヒナドリの様に思えて、付けたタイトルです。
でも彼らは、彼らは残留ではなく、国家的捨子です。
中部満州の比較的被害の少なかった私たちの住んでいた街にも、敗戦直後後、ぼろぼろになって飢えと寒さでに震えながら、やっとたどり着いた難民化した奥地の日本人達を救済活動をしました。
その後国共内戦に巻き込まれ、前線に出たり、闘ったり、逃げたり、いろんな体験の中で、日本人だけじゃなくどれだけの子供たちが、犠牲になって行ったか、この身に痛いほど刻み込まれました。
この曲の原詩となる漢詩を劉信英が成田空港で,両親にめぐり合えないまま、涙で朗読している姿がTVで放映され、それを見て胸を打たれました。原詩を翌日の新聞で発見。翻訳して作曲するまで、1日も掛らなかったのは、一つ間違えば私も・・・
この曲が自費出版され6000枚以上のレコードが売れたそうです。反響も多く、700通を超える感想が寄せられ、それをベースに、1983年8月17日にNHKのラジオドキュメンタリー「はぐれつばめは帰れない」が放送されました。
満州からの1,000kmを越える逃避行の中で、大混乱が発生します。
1杯の水に苦労して、1歳の乳飲み子を抱えて何度も子どもを捨てようかと思いつめたが、「内地へ帰ろう」という気力だけ。
家族を細い麻紐でくくりつけてはぐれないように工夫したり。
帰ってきたら帰ってきたで地獄のような生活。
普段は忘れているけど、『戦争はもう絶対に起こさないで』と叫びたい。
線路伝いに日本へ向かったものの、冬に。昭和21年の春。雪が解けると、線路脇には大人や子供の死体がたくさん出てきたそうです。
残留した人、帰ってこられた人、途中で力尽きた人。
軍からの命令で家族の自決を求められた人。
195万人の満州在住の日本人のうち、帰国できた人は110万人、ソ連に抑留された人が43万人。
約40万人が、残留したり、死亡された人々・・・・
こういう証言が、この曲をきっかけに集まってきたわけです。
製作日誌:
平成15年4月19日 |
初版はIwakichskyクンのMIDIデータ打ち込み作品です。
こちらから
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平成20年6月14日 |
すずききよしさんからいただきまいたスコアで作り変えました。
テンポがかなり速くなっていることと、2行目後半、「鳴く声きけば」の前に八分休符が入ってます。1000曲集の楽譜とちょっと違いますので、ご留意ください。
3番のあとに間奏が入ります。主旋律はアコーディオン、間奏はViolinにビブラートをかけて二胡風に仕立てておりますがいかがでしょうか。
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平成20年6月18日 |
テンポが速すぎた、ということで調整。
全体のバランスも整えました。
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平成20年6月27日 |
ラジオドキュメンタリーのテープを聴きましたので、その一部をご紹介します。
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