南葛労働者の歌

【作詞・作曲】築比地仲介による
【MIDIデータ作成協力】Iwakichsky

1.ああ革命は近づけり
  かいめつ近し資本主義
  わが南葛の同志らは
  熱と力もてきたえゆく

2.闘いここに幾とせか
  歴史をくれば血の頁
  わが南葛の同志らは
  いかでか伝統失すべき

3.断頭台を血ぬるとも
  かばねを越えて我等ゆかん
  わが南葛の同志らは
  いかでか迫害屈すべき

4.やがて勝利の栄光に
  紅もゆるバラの花
  わが南葛の同志らは
  赤旗かかげ進みゆく


戦前の歌で昔の南葛飾郡の労働者を歌ったもの。MIDIデータは無伴奏をイメージして作っています。(Iwakichsky)

もともと、埼玉県の葛飾郡が1875年ごろに、足立郡と共に、それぞれの一部が東京府に編入され、南足立郡、南葛飾郡となっており、今の足立区、葛飾区になってます。一方、お隣、千葉県北西部では、1954年柏町,小金町,土村,田中村が合体し東葛市ができてます。さらに遡ると、下総国というのが、千葉県北部と茨城県南西部および埼玉県東部にかけてあり、これが明治初年に葛飾県になってます。要するにこの辺一帯が葛飾なんですね。
中学の郷土の歴史で東京都について学びましたが、大田区は中小企業が多い、と学んだ事を覚えてますが、この葛飾についてはあまり記憶がありません。大田区が京浜工業地帯をかかえた下請けの街だったように、葛飾区は、京葉工業地帯を支えた町工場群。虎屋のうらが印刷工場だったようにこちらも中小企業が中心の工業地帯だったのでしょうね。

Iwaちゃんは無伴奏でMIDIを作ってくれましたが、30年くらい前にこの唄を歌っていた当時は、もう少しアップテンポでメリハリの利いた感じでした。

【H17.8.18】
この曲の元は「南葛のうた」と云うらしいです。
以下、「日本の革命歌」(一声社)からの抜粋
初版1974年6月10日
戦後、中央合唱団が掘起したこの曲はの原型は「南葛の歌」と思われる。
ところが不思議なことに大正時代に南葛で活動していた丹野セツやその他の人に聞いても、この歌だけは歌った記憶がないと云う。結局、南葛労働会の時代ではなく、東京東部合同労組の時代らしいということになったが、いつごろ誰によって作り出されたものかまだ明らかでない。
この歌を戦後築比地仲助から採譜したのは当時中央合唱団にいた岡田和夫だが、この採譜は容易ではなく、曲の形にまとめるのにかなり採譜者の主観が入っているようだ。これを三高ボート部の「琵琶湖周航の歌」と結びつける向きもあるが、なぜ三高と南葛が結びつくのか分からない。私(矢沢保)は、そうではなくこれはいわゆる「可愛いスーちゃん」(後にネリカンブルース)の節の崩れたものではないかと思っている。

増補改訂版1985年2月20日
南葛の歌」について、初版の歌詞は「宣伝歌調」によったが、ここには、豊島まつ子の記憶によるものを納めた。メロディは亀有と大崎にあった無産者診療所で看護婦をしていた、豊島まつ子、中川ワカ、砂間あき、奥谷キヨシの演唱によった。

ところが、三青のハルちゃんによりますと(H17.8.18の掲示板へのカキコから)、
エーチャンから南葛労働者のうたの資料として「日本の革命歌」の抜粋を見せてもらいました。丹野セツさんたちがこの歌を知らなかったことから、この歌は東京東部合同労組の頃のものと思われる…とのこと。私の祖父は1916年頃から南葛の労働者で純労働者組合から共働社、関消連と活動しましたが、その祖父が戦後まもない頃、懐かしそうに腕を振って「南葛労働者のうた」を歌ったと書いてくださった方がいます。それを思うとやっぱり1916年から1923年頃にはうたっていたんじゃないかなって勝手に思っています。祖父のところに取材に来てくれたらよかったのに…って思います。

JASRAC情報

製作日誌:
平成15年6月1日 歌詞とMIDI(無伴奏形式)データ
平成15年6月8日 MIDI(フルバージョン)データでアップしました
平成18年8月18日 南葛の歌」について記述を追加