うたごえの歴史
(戦後から30年のあゆみ)
年代 | うたごえの出来事 | うたごえ喫茶の動向 | うたごえの曲 | その他 |
1944 | 惜別の歌 | |||
1945 | ||||
1946 | 世界をつなげ花の輪に | メーデー復活(第17回) 国際学生連盟結成 |
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1947 | 全国大学生協連結成 全生連結成 |
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1948 | 中央合唱団結成 | 全世界民主青年歌 | 第1回世界青年平和友好祭(プラハ) | |
1949 | 労音 大阪で最初の音楽会 |
国際学連のうた | ||
1950 | 「どん底」オープン | いぬふぐり | 朝鮮戦争 | |
1951 | わらび座が東京で誕生 | 現在地で「どん底」スタート | 日本生活協同組合連合会結成 | |
1952 | ||||
1953 | わらび座が現在地に定着 | 原爆を許すまじ | 三池113日闘争 | |
1954 | ||||
1955 | カチューシャスタート 12月 うたごえの店「灯」 |
第1回原水爆禁止世界大会(広島) | ||
1956 | 沖縄を返せ | 第2回原水爆禁止世界大会(長崎) 全国消費者団体連合会結成 |
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1957 | 「灯」拡張10坪 | 子どもを守る歌 砂川 |
勤評闘争 砂川闘争(~1958年) |
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1958 | 「灯」拡張15坪 9月 渋谷「灯」開店 11月 新宿コマ裏「灯」開店 |
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1959 | 歌声喫茶「ともしび」 新「灯」ビル |
三池闘争(~1960年) | ||
1960 | 地底の歌 | 4月28日沖縄県祖国復帰協議会結成 ベトナム戦争(~1975年) |
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1961 | 9月 吉祥寺「灯」 | |||
1962 | この勝利ひびけとどろけ | 荒木栄逝去(1924年~) | ||
1963 | 三多摩青年合唱団設立 | |||
1964 | 第1回全国学生うたごえ祭典 | 吉祥寺「灯」閉店 | ||
1965 | 5月 統一劇場創設 | |||
1966 | 6月 亀戸「灯」開店 10月 吉祥寺「灯」再開 |
10.21国際反戦デー | ||
1967 | おはよう東京 | 明るい革新都政を作る会結成 美濃部亮吉都政(~1979年) |
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1968 | うたごえ20周年 歌劇「沖縄」を制作 |
祖国築くわれら 一坪たりとも渡すまい あかつきの空に |
70年安保を控えて、社共共闘が進み、革新勢力が躍進する。それに比例して、うたごえ運動も高潮期を迎える。 | |
1969 | 5/11 音楽文化集団ともしび結成 | |||
1970 | この時点で存在したお店 1.カチューシャ新宿店 2.手風琴 3.池袋 ラーク 4.高田馬場 十一時館 5.灯 西武新宿駅前 6.ともしび 亀戸店、 7.新宿 8.吉祥寺 9.長野店 10.仙台、若人 11.バラライカ 12.カチューシャ渋谷店 13.新宿 どん底 14.新宿 家路 |
チリ連立政権 | ||
1971 | ベンセレモス | |||
1972 | 4月 吉祥寺「灯」F&Fビル移転 | 5.15沖縄復帰 | ||
1973 | 3月 ともしび新宿店(鬼王神社前)開店 | 関鑑子逝去(1899年~) チリ・ピノチェトクーデター |
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1974 | ||||
1975 | 12月 長野「ともしび」開店 | ふるさと(映画「同胞」) | ||
1976 | ||||
1977 | 西武新宿駅前灯閉店 | |||
1981 | 3月 大阪ともしび開店 | |||
1993 | 大阪ともしび閉店 |
そもそも、うたごえ運動とは
戦後、民主主義と平和を守るために1948年,関鑑子(あきこ)(1899‐1973)が中央合唱団を創設してうたごえ運動がはじめられます。1953年には「うたごえは平和の力」をスローガンとして高まって行きます。
原水爆禁止運動は1955年に第1回原水爆禁止世界大会としてスタートしますが、その前の53年に「原爆を許すまじ」が作られています
三池闘争は、1959年夏から60年にかけての闘われましたが、53年には「三池113日闘争」としてくすぶり始め、荒木栄が、一連の闘争の中ですばらしい「労働歌」を作り上げて行きます。「がんばろう」は三池闘争の最終局面60年に、最後の鼓舞のため作られています。
沖縄返還闘争は、1972年5月15日の復帰まで闘われます。1956年6月のプライス勧告(アメリカ軍の土地強制接収に対して抵抗する琉球立法院への拒否権のようなもの)をきっかけに闘争としての盛り上がり、同年10月に「沖縄を返せ」が高らかに歌われています。
このように、うたごえ運動は職場や学園での平和と民主主義をまもるサークル活動と密接に関連し,特に、いわゆる活動家から一般の人々へ、事の重要性を分かりやすく訴える情報宣伝の一つだったといえます。それゆえに、労働歌・ロシア民謡に託された想いには70年代に向けた革命的ロマンも満ち溢れていたものでした。
最盛期は70年安保を控えた60年代,しかし、70年が何となく過ぎ去ってしまい大衆運動が凋落するとともに「日本のうたごえ」運動は衰退して行きました。
その傾向は、1967年頃、佐良直美「世界は二人のために」のヒットあたりからではないかと思います。それまでは、「みんなで団結してがんばろう!」的な考え方が組織運動を支えていたわけですが、個人主義的なこのような歌が流行ってくると、組織から個人商店的な考えとなり、その傾向が顕著になったのが1970年頃。まさに「うたごえ」が「一般の人々」の動きも変えてしまったわけです。
一方、音楽関連では、労音についても忘れることが出来ません。
〈良い音楽を安く〉〈企画運営を会員の手で〉をスローガンに、1949年11月大阪で最初の音楽会が開かれました。1955年には第1回全国労音連絡会議が開かれた(20労音,会員数13万人)。その後も会員数は増え,65年には65万人に達し,日本音楽界に大きな影響を与える組織へと成長します。敗戦後の復興期に,労働者がもっと気軽に音楽を楽しみたいという要求に応えてきました。しかし、TVの普及、「題名の無い音楽会」など無料で音楽が楽しめる、とか、高度成長で多少料金は高くなってももっと多様化した音楽を聴きたいという要求が増えるにつれて、70年代以降、うたごえと同様の道をたどってゆくことになりました。
現在のうたごえ運動
1995年ごろのうたごえ喫茶の復活と共にうたごえ運動も多様な展開をみせています。
歌をうたいたい、という要求、これは普遍的なものです。カラオケが一世を風靡していますが、個人で歌い、周りは聴くか手拍子というカラオケに対して、一緒にみんなで歌うという本来のうたごえ的な手法が見直されてます。
歌をうたう、ということでも、考え方として
など多彩な背景をもってます。
このような時勢に、うたごえ新聞がその3つの機能として、
が上述の歌への要求を満たす形になってます。